『知らない』ことは恥ずかしくない。むしろ【無学】は理想的である。

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知らないことは恥ずかしくない

あなたは【無学】という言葉を聞いてどんな印象を抱きますか?

おそらく、『勉強不足』や『教養がない』といったようにネガティブな印象を抱くことでしょう。

しかし、無学は決してネガティブなことではありません。

むしろ、無学であることは理想的な状態なんです。

この記事では、【無学】の本当の意味について仏教的な観点から解説しています。

きっと『知らない』ことに対する意識が大きく変わりますので最後まで読んでみてください。

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無学は恥ずかしいこと?

先日、信者さんのお宅でご不幸があり、お葬式の打ち合わせをするためにご遺族が寺に来られました。

いろんな話をしていたときに、ご遺族が「お葬式のことはよく分からなくてねぇ、ホントに無学でお恥ずかしいです。」と、とても申し訳なさそうにおっしゃいました。

しかし、お葬式について詳しい人の方が少ないです。

なので、たとえお葬式のことをよく知らなくても、決して無学でもなければ、ましてや恥ずかしいことでもありません。

それに、【無学】というのは、じつはとても素晴らしいことなんです。

仏教において【無学】という言葉は、一般的に使われる意味とはまったく異なり、とても奥深い意味を持っています。

仏教における【無学】の概念を知ることで『知らない』ことに対する考え方が変わるでしょう。

一般的な『無学』と、仏教における【無学】の違い

私たちは『無学』という言葉を「知識や教養が足りていないこと」という意味で使います。

漢字を見ても《学びが無い》と書くので、そのように認識するのが当然です。

しかし、仏教では無学という言葉はまったく違う意味で使います。

仏教において【無学】とは『もうこれ以上学ぶことが無い状態』という意味です。

これ以上学ぶことが無い状態というのは、宇宙全体のあらゆるものの真理を学び尽くした状態、つまり『悟りの境地』を意味します。

仏教を世に広めたお釈迦様は、あらゆる真実を学びつくして完全に理解したことで【無学】を遂げた方です。

私のような僧侶は《悟り》を目指して修行をしている立場なので、言ってみれば【無学】が最終目標となります。

ですから、仏教においては、無学であることは決して「恥ずかしいこと」ではなく、むしろ無学は「理想的なこと」なのです。

『知らない』ことは何も恥ずかしくない

あなたは今までにいろんなことを学んできたでしょう。

学校での勉強、仕事で得た知識、趣味で身につけたスキルなど、たくさんの学びがありましたよね。

しかし、私たち人間が学べることの数なんて、宇宙全体の真理の数に比べると、本当にごく一部で、大海の一滴にも満たない数です。

つまり、どんなに博学の人であっても、宇宙の観点からすれば《知識が足りない人》になります。

なので、知らないことがたくさんあるという点ではみんな同じ、『知らない』ことは何も恥ずかしくないのです。

逆に言うと、知らないことばかりの状態は『無限の可能性がある』ということです。

今後もたくさんのことを学んで、どんどん成長し、明るく希望に満ちた未来を手に入れましょう。

人生は『学び』の連続

私たちは誰もが《知識が足りない人》です。

だから、『生涯学習』という言葉があるように、生きることは学びの連続です。

生まれた瞬間から学びは始まり、歩き方を学び、言葉を覚え、社会のルールを身につけ、人間関係を築くことの重要性を学びます。

そして、新しく知ることの喜び、難しいことをやり遂げた達成感、好奇心が満たされる充実感を学ぶ。

たくさんの学びがあるから人生は楽しく、豊かなものになるのではないでしょうか?

知らなかったことを知るたびに世界は広がり、物事の見方も変わり、人生に彩りを与えてくれるでしょう。

まとめ

知識の量は人それぞれです。

しかし、宇宙の観点で見れば、誰もが《知識が足りない人》です。

ですから、『知らない』ことは当たり前であり、決して「恥ずかしいこと」ではありません。

知らないことがあれば少しずつでも学んでいきましょう。

まずは、『興味はあるけどまだチャレンジしていない』ということから始めてみるのがいいと思います。

きっと、そこから学びが広がっていきます。

点と点が繋がって線となり、線が広がって面となるように、小さな学びの連続があなたの人生を楽しく豊かなものへと変えていくでしょう。

※物事の見方によって人生は変わります。

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