毎日忙しく生きていると、ふとしたときに『無事』であることの尊さに気づきます。
例えば、
- 家族が無事に帰ってきたとき
- 仕事が大きなトラブルなく終わったとき
私たちはそんなときに「無事で何より」と自然に口にします。
じつは、この『無事』という言葉は仏教語です。
そして、単に《何もない平穏な状態》ということだけではなく、他にもっと深い意味が込められているのです。
この記事では、仏教の教えに触れながら『無事』の本当の意味について解説しています。
いつもとは違った視点から『無事であること』の素晴らしさを感じられますので最後まで読んでみてください。
『無事』って本当はどういう意味?
『無事』とは、文字にすると「事が無い」と書きます。
これを見ると、特に大きな問題もなく事が進んだ、という平穏で変わりない状態を表しているように思えます。
しかし、仏教で使用している『無事』は、そのような意味ではありません。
仏教でいう『無事』は【悟りを求める心をも捨て去り、ありのままの自分と深く向き合った、真に安らかな状態】という意味です。
仏教の修行者は、悟りを得たいという思いから、日々自分に問いかけ続けます。
何を考え、どう行動すべきか。
ときに迷い、ときに苦しみながら、前へ進もうとするのです。
そして、迷い苦悩するうちに修行者は、ついつい大事なことを忘れてしまいます。
それは、仏という存在は本来【自分の内側】にある、ということ。
仏教では、私たちは誰もが《仏の要素》を持っていると考えており、これを『仏性』といいます。
ですから、普段は意識することがなくても、本当は私たち全員の中にはすでに仏様がいるのです。
しかし、仏道修行をしている人は「早く仏様のようになりたい!」と、仏様が【自分の外にある】ように考えてしまい、せっかくある自分の仏性に気がつきません。
これは、まるでメガネを額に乗せたまま「どこにメガネを置いたんだろう?」と探しまわるようなもの。
仏様は最初から自分自身の中にいるのですから、べつに焦って悟りを求めなくてもいいんです。
自分の外に悟りを求めることを捨て去り、ありのままの自分に目を向けることが悟りへの道です。
ただし、悟りを求める心を捨て去るといっても、《無気力》や《無関心》ということではありません。
「本当に求めている事は自分の中以外には無い」と純粋に自分自身と向き合うことが『無事』なのです。
迷ったとき、答えは自分の中にある
私たちの人生は、毎日の小さな選択の積み重ねです。
そして、ときには人生の岐路となるような大きな選択に迫られるときもあります。
そんなときは、
- 私は本当はどうしたいのだろう?
- なぜそれを選びたいんだろう?
と、どんどん自分自身に問いかけ続けてみてください。
自分自身に問いかけることは、自分の中の仏様に問いかけることです。
何度も問いかけるうちに、自分の内なる仏様が「こちらだよ」と答えに導いてくれて、心の霧も晴れていくことでしょう。
後悔しない生き方が『無事』である
どんなに努力をしても、どんなに誠実に生きても、それですべて上手くいくとは限りません。
仏教に【諸行無常】という教えがあるように、この世のすべては常に移り変わります。
ですから、私たちにできることは『結果』にこだわるよりも『どんな気持ちで生きていくか』を大切にすることです。
自分の選んだ道が《思っていた結果》ではなかったとしても、自分なりによく考え抜いて選択したものなた後悔はありません。
それこそが、ありのままの自分と真剣に向き合った、本当の『無事』なのです。
周囲でどんなことが起きていても、心の中に平穏がある、そんなときに私たちは『無事』といえるのではないでしょうか。
まとめ
いつも何気なく使っている『無事』という言葉には深い意味が隠れています。
『無事』の本質は、自分の外側に答えを求めず、自分の中にある仏性に気づき、自分自身と真剣に向き合うことです。
もしも今後、不安や迷いで立ち止まったときは、
- 私は本当はどうしたいのだろう?
- なぜそれを選びたいんだろう?
と自分自身にとことん問いかけてみてください。
自分自身に問いかけることは、自分の中の仏様に問いかけること。
自分の中の仏様に問いかけて出てきた答えなら、どんな結果でも後悔はないでしょう。
それが本当の『無事』なのです。
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