誰かに挨拶をするときに【軽く頭を下げる】ことを『会釈(えしゃく)』といいますよね。
私たちは日ごろから、この会釈をごく自然に、そして無意識にやっています。
しかし、『会釈』は単なる礼儀やマナーではなく、そこに深い意味と背景があるのです。
この記事では『会釈』の語源と意味、そして私たちが会釈をする重要性について解説しています。
本記事を読んだ後は《気持ちのこもった優しい会釈》になりますので最後まで読んでみてください。
この記事を書いている私『ちょっき』は、お坊さん歴29年以上。お坊さんに関する裏話や、人間関係の悩みを解消する内容について発信しています。
『会釈』の語源と意味
挨拶をするときに軽く頭を下げることを『会釈』といいます。
私たちは日頃から会釈をしていますが、その語源や由来をご存じの方は少ないでしょう。
『会釈』の語源は、仏教の『和会通釈』
『会釈』とは、じつは仏教の言葉です。
『会釈』は、仏教の『和会通釈(わえつうしゃく)』という言葉が語源になっています。
『和会通釈』というのは、お釈迦様の弟子たちが集まって【お釈迦様の教えを解釈すること】をいいます。
お釈迦様の教えはたくさんありますが、その中には《相反するような教え》を説く場合があります。
例えば、
- 我というものは存在しない
- 自らを灯明として依り所にせよ
など、「自我なんていうものは無いのだ」と言ったり、一方で「自分を依り所にしなさい」と言ったりしているのです。
じつは、お釈迦様が教えを伝えるときは、それを聞く相手によって伝え方を変えていました。
教えを理解する能力は人それぞれに異なるため、聞く相手に合わせて最善の伝え方をしていたのです。
これを【対機説法(たいきせっぽう)】といいます。
さまざまな視点から教えを伝えていたので、ときには相反するようなことも言っていますが、それは共通の目的である『悟りを得る』ための手段だったのです。
そのような、たくさんの異なる教えを照らし合わせ、その教えの本質を明らかにすることを『和会通釈』といいます。
お釈迦様の弟子たちは『和会通釈』を何度もくり返し、お経という形で教えをまとめていきました。
この『和会通釈』が略されて【会釈】と呼ばれるようになり、そこから現在のような《軽く頭を下げる》という礼儀作法へと繋がっていったのです。
『会釈』の精神
会釈は、ただ《教えの本質を明らかにする》というだけではありません。
会釈は、
意見の異なるもの同士がお互いに配慮し、理解し合い、相手の心を推し測って対応する。
という『相手を思いやる精神』を意味する言葉でもあります。
自分の意見を一方的に押し付けるのではなく、相手の立場や背景を想像し、お互いに心を寄せ合いながら答えを導きだしていく。
これが、会釈という言葉に込められた本来の精神なのです。
『会釈』をするときに軽く頭を下げる理由
『会釈』をするときは、相手に対して軽く頭を下げます。
これは、《相手を思いやる》という精神的な意味合いが【礼】という動作に表れているのです。
私たちは、相手への敬意や感謝などを示すときに自然と頭を下げていました。
しかし、それが形式化して【人と会ったときに軽く頭を下げる】という動作だけが文化として残りました。
私たちは人と会うと何となく会釈をしていますが、本来は相手を思いやる心が込められるものです。
ですから、本来の意味を理解しながら会釈をしていれば、お互いを思いやる良好な人間関係を築き上げることもできるのです。
今後の『会釈』を変えてみよう
ここまで本記事を読んでくださったあなたは、すでに会釈の本来の意味をご存じです。
せっかくなので、明日から少し心構えを変えて会釈をしてみませんか?
たとえば、職場の同僚、友人やママ友、ご近所の人と会ったときに、
- いつもありがとう
- お互いに頑張ろうね
- また明日ね
と、相手の様子をよく見て、思いやって一礼をしてみましょう。
本来の『和会通釈』のように、意見の違う人がいても、その人の立場や背景を想像して少しだけ歩み寄ってみてください。
いつもと少し違うあなたの会釈を見て、相手の会釈にも思いやりが出てくるかもしれません。
そうやってお互いに心を込めて会釈をしていれば、きっと良好な人間関係が築けることでしょう。
まとめ
『会釈』はただの礼儀作法ではありません。
会釈は、その語源である『和会通釈』のように、相手を思いやる作法です。
思いやりの気持ちを込めて会釈をすることで、相手への敬意や感謝が伝わります。
その結果、周囲の人と良好な人間関係を築くことができるでしょう。
明日からあなたもいつもと少し違った本当の会釈をしてみてください。
※日本語には仏教の言葉がたくさんあります。