私たち日本人は、相手へ不満をぶつけるときに直接的な表現ではなく、あえて間接的な言い方をすることがあります。
例えば【皮肉】もその1つ。
じつは、【皮肉】という言葉はもともと仏教の言葉なんです。
本記事では【皮肉】という言葉の由来や背景にある思想について解説します。
何気ない言葉が少し違って見えるかもしれませんので、興味のある方は読んでみてください。
皮肉とは
僕には、学生時代の同級生でどうしても苦手な男がいます。
先日、同級生の数人で食事をしていたときに、その彼から一言。

お前はスゴイよな、給料1ヶ月分くらいの金額を1時間やそこらで稼ぐんだろ?よっぽど素晴らしいお葬式をするんだろうね。
彼は、決して僕をホメたわけではなく、高いお布施をもらっていることに対する【皮肉】を言ったのです。
相変わらずイヤな奴です、ホントに。
【皮肉】というのは『自分の本心とは逆の言葉で遠回しに批判する表現』をいいます。
例えば、
- 怒りや不満を直接ぶつけずに伝えたい
- 冗談交じりに人をからかう
- 自分の立場を守りながら批判したい
という場面で使います。
あなたも一度くらいは皮肉を言われたことがありませんか?
皮肉というのは直接的な表現ではないため、言われた側としては返すコメントに困るんですよね。
「なんか腹立つな。」と思いながら何も言えずに悶々とするだけ。
皮肉に対してすぐに皮肉で返せるくらいの頭脳があればいいのにと何度思ったことか。
【皮肉】は仏教の言葉
遠回しに批判することをなぜ【皮肉】というのでしょうか。
じつは、【皮肉】という日本語はもともと仏教の言葉なんです。
禅宗の偉いお坊さんに『達磨(だるま)大師』という方がいて、以下の話が【皮肉】の由来になっています。
達磨大師は4人の弟子に同じ内容の質問をして、弟子達はそれぞれに答えを出しました。
すると、達磨大師は、
1人目には「よくやった、お前は私の皮を得たぞ。」
2人目には「よくやった、お前は私の肉を得たぞ。」
3人目には「よくやった、お前は私の骨を得たぞ。」
4人目には「よくやった、お前は私の髄を得たぞ。」
と言いました。
これは『皮肉骨髄』という話で、教えの理解度を《皮、肉、骨、髄の4段階》に分けたものです。
1人目の弟子は『皮』を、そして2人目の弟子は『肉』を得たと達磨大師に言われました。
しかし、皮も肉も表面的なものであり、これは達磨大師の投げかけた問いに対する理解度が浅いことを表しています。
一方で、3人目の弟子は『骨』、4人目の弟子は『髄』を得たと言われたので、これは先ほどの2人よりも深く理解していることを表しています。
ところが、達磨大師は4人の弟子全員に「よくやった」とホメているんですよね。
でもじつは、みんなに「よくやった」とホメていますが、『何を得たか』を伝えることで4人の理解度に差をつけています。
理解度の浅い2人の弟子にも「よくやった」とホメていますが、皮と肉を得たと伝えることで、本当は「お前たち2人はまだ理解が浅いぞ」と言っているわけです。
このように、ホメていながらも遠回しに理解度の違いを指摘したことから、現代の【皮肉】という言葉で使われるようになりました。
ちなみに、達磨(だるま)と聞いて何か思い出しませんか?
そうです、テレビの正月番組や選挙番組でよく出てくる、赤くて丸い『だるま』です。
じつは、赤くて丸い『だるま』は、達磨大師のことを表しています。
達磨大師は、壁に向かって9年間座禅を続けて悟りを得たとされています。
しかし、そのせいで手足に血流が回らず、手足が腐ってしまったそうです。
それでダルマには手足がないんですよね。
また、偉いお坊さんは『赤い衣』を着るので、赤い色をしています。
なので、ダルマというのは、墨で目を入れるよりも、本当は手を合わせるものなんです。
まとめ
【皮肉】という日本語は、もともと仏教の言葉です。
達磨大師が4人の弟子全員に対して「よくやった」とホメながらも、じつは『皮、肉、骨、髄』という4つの返答によって教えの理解度を伝えたことが由来になっています。
これは達磨大師が弟子達を差別したわけではなく、それぞれに「早く成長してもらいたい」という思いから遠回しに理解度を伝えたものです。
ですから、本来の【皮肉】には、達磨大師のように『相手への思いやりと愛情』がなければいけないのです。
つまり、【皮肉】は相手を傷つける言葉ではなく、相手の成長を促すための愛情のこもった言葉といえます。
そう考えると、皮肉を言われても少し穏やかに聞くことができますよね。